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日本 国号の成立





「日本」という国号が成立した時期は、7世紀後半から8世紀当初までの間と考えられている。具体的には、天武天皇治世において成立したとする説熊谷公男 『大王から天皇へ 日本の歴史03』(講談社、2001)、吉田孝 『日本誕生』(岩波新書、1997)、など。と、701年大宝元年)の大宝律令成立前後に成立したとする説神野志隆光『「日本」とは何か』(講談社現代新書、2005)など。が有力視されている。『日本書紀』大化元年七月条に高句麗百済からの使者への詔に「明神御宇日本天皇」とあるが、これは後に定められた大宝律令公式令を元にして『日本書紀』編者が、潤色を加えたものと今日では考えられている古田東朔「国号」節(「日本」項、『国史大辞典』第11巻、吉川弘文館、1990)
7世紀後半はが対外志向を強め、これに脅威をおぼえた唐周辺諸国が、国力増強のために国制整備を進めた時期だった。倭国もまた660年の百済復興戦争で唐・新羅に敗北し、国際的な孤立へと追い込まれ、以後、倭国は律令制の導入などにより精力的な国制整備に取り組んだ。この取り組みを大きく推進したのが天武天皇だった。天皇中心の国制整備を進める天武治世期において天皇号が生まれたと現在考えられているが、「日本」国号の成立を天皇号の成立と同時期と見るのが、前者説である(例えば吉田孝飛鳥浄御原令(689年)にて「日本」国号と天皇号が定められたと推測している吉田孝 『日本の誕生』(岩波新書、1997)。)。その後、天武が推し進めた国制整備は701年の大宝律令成立をもって一つの到達点に至ったが、大宝律令の成立を「日本」国号の成立と密接なものとする見方に立つのが、後者説である(例えば神野志隆光は具体的に、大宝令公式令詔書式において「日本」国号が定められたとしている神野志隆光『「日本」とは何か』(講談社現代新書、2005))。
8世紀前半の唐で成立した『唐暦』には、702年(大宝2年)に「日本国」から遣使のあったことが記されている。後代に成立した『旧唐書』、『新唐書』にもこの時の遣唐使によって「日本」という新国号が唐(大周)へ伝えられたことが確認できる。両書とも「日の出の地に近いことが国号の由来である」とし、国号の変更理由についても、「雅でない倭国の名を嫌ったからだ」としている。国号変更の事情について、旧唐書が「小国だった日本が倭国を併合した」とするのに対し、新唐書は「倭が日本を併合し、国号を奪った」としており、混乱が見られるこれらの記述は、天武天皇が大友皇子の近江朝廷を滅亡させた壬申の乱を表すとする説がある。。これらの記述により、702年に「日本」国号が唐によって承認されたと現在では考えられている。
旧唐書・新唐書が語るように、「日本」国号は日本を東方に見る国、すなわち中国大陸の国からの視点により生まれた網野善彦『「日本」とは何か』(講談社、2000)、神野志前掲書、など。平安時代初期に成立した『弘仁私記』序において、日本国が中国に対して「日の本」すなわち東方に所在することが日本の由来であると説明され、平安時代に数度にわたって行なわれた日本書紀講読の様子を記す『日本書紀私記』諸本においても、中国の視点により名付けられたとする説が採られている。神野志隆光は、日本の称が中国の世界観の中から生まれた可能性を指摘した上で、ゆえに日本の国号が唐に受け容れられたのではないかと考察している。また、『隋書』東夷伝に、倭王が隋皇帝への国書に「日出処」の天子と自称したとあり、このときの「日出ずる処」という語句が「日本」国号の淵源となったとする主張もあるが、仏典『大智度論』に日出処は東方の別表現である旨の記述があり、現在、「日出ずる処」は単に文飾に過ぎず、「日本」国号の成立とは無関係であると考えられている東野治之『遣唐使と正倉院』(岩波書店、1992)や神野志前掲書など。



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