小山田 庄左衛門(おやまだ しょうざえもん、生没年不詳)は、赤穂藩主浅野長矩の家臣。大石内蔵助の盟約に加わっていたが、脱盟した。江戸詰め100石。
父は江戸詰めの赤穂藩士小山田十兵衛。この小山田十兵衛の名は山鹿素行が赤穂へ流されたときの受け取りの護送人の中にも見える。この父は隠居して、娘婿にあたる松山八右衛門(旗本大久保忠庸の家臣)の住居に住み、一閃と号した。庄左衛門が小山田家の家督を継ぎ、江戸詰め100石となる。
赤穂藩改易後、仇討ちの義盟に早くから加わり、本所林町五丁目に堀部安兵衛と住んでいたが、のち同志の片岡源五右衛門から金5両と小袖を盗んで逃亡した。なお元禄15年(1702年)12月15日の討ち入り後、父小山田一閃は、義士達の名のなかに息子の名が見当たらないのに絶望して、しかも息子が義士の金を盗んだことを知り、これを恥じて12月18日に切腹している。
享保6年(1721年)1月15日、深川万年町冬木店に住む中島隆碩という医者の夫妻が、下男の直助に殺害された事件が起こった。この主人殺し事件は講談「直助権兵衛」で有名だが、実際にあった事件である。享保通鑑は中島隆碩が浅野内匠頭に仕えていたことを記しているため、これが小山田庄左衛門であるとされているのだが、真相は不明。
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