、ロンドン大火が発生して市内の家屋のおよそ85%が焼失した。
16世紀にヘンリ8世のもと、宗教改革が進展する中で修道院解散に伴いシティ内外で没収地の開発が進んだ。これにより、多くの人口を許容できるようになったロンドンは、当時の経済発展とあわせ急激に成長しはじめた。シティとウェストミンスター間には市街地が成長して両者は一体化し、17世紀中期には人口50万以上、さらに半世紀後には70万人以上が居住している。
1566年、エリザベス1世が王立取引所を開くとシティの重要性は急速に増大する。街の発展にともなって貧困層が流入し王権への抵抗勢力になることを女王は恐れ、1580年に市門の外3マイル以内に新しい建物をたてることを禁じる布告を出した。しかし、町の拡大を法令で阻止することが不可能なことはやがて明らかとなる。
後に再建されたセント・ポール大聖堂
1665年のペストの大流行では10万人近い人々が死んだとされる。1666年にはシティのパン屋から出た火が市壁に囲まれた地の3分の2まで広がり、辺りを灰と化させたロンドン大火が起こった。これは当時、ロンドンのほとんどの建造物が木造だったこと、道路の幅が狭過ぎ、もらい火によって火の手が広まったことが、火事の規模を拡大させた理由とされる。大火が起こる4年前から広場や都市計画のあり方について独自に研究をしていたクリストファー・レンは、更地となったロンドン中心部を雑然とした街から、壮大な都市として生まれ変わせる好機として都市計画を構想した。しかし、この構想は都市の整備によって土地を失うことを恐れた地主達が、利己的に家々を建造したことによって計画倒れに終わった。だが、レンは大火が起きるのを防ぐための法制度整備に努めた。1667年の再建法では新築の建造物には石と煉瓦のみを使用するよう定められた。再建されたシティは、かつて木造建築が雑然としていた町並みとは全く異なるものとなり、市街中心部は石造に作り替えられて不燃化され、民間投資によって標準化された住居建築群が建設されて道路も拡幅された。さらに18世紀にはセント・ジェームズ・パークからリージェンツ・パークに至る大通りが敷かれ、街路沿いにピクチャレスクな建物が整然と並ぶ景観が形成された。1760年代には中世からの市壁と門も取り壊されている。
関連画像&動画 |