1917年、63歳になったヤナーチェクは、運命の女性カミラ・シュテスロヴァーと出会った。ズデンカ夫人の回想録によれば、それ以前にも「運命の女」が2人いた。そのうちの1人は、『イェヌーファ』のプラハ初演でコステルニチカを歌ったソプラノ歌手、ガブリエラ・ホルヴァートヴァーだった。1917年から1919年に歌曲集「消えた男の日記」、1919年から1921年にオペラ「カーチャ・カバノヴァー」、次いで1921年から1923年にかけてオペラ「利口な女狐の物語」、1923年には弦楽四重奏曲第1番「クロイツェル・ソナタ」、1924年に木管六重奏のための「青春」、1926年に「シンフォニエッタ」、「グラゴル・ミサ」、1927年から1928年に最後のオペラ「死者の家から」、1928年に弦楽四重奏曲第2番「ないしょの手紙」と、それぞれの分野での代表作を立て続けに書き上げた。
1928年7月30日、カミラとその夫デイヴィッド、そして11歳になるカミラの息子の三人を招待して、故郷フクヴァルディに出かけた。カミラの夫デイヴィッドは商用のため数日で帰宅したため、ヤナーチェクはカミラとその息子の三人で休暇を過ごしていたが、この滞在中ヤナーチェクは死に至る肺炎に罹った。原因はカミラの息子が帰らないのを心配して雨の中を森に探しに出かけせいとも、ハイキングで雨に降られたせいとも言われる。
8月12日、ヤナーチェクは肺炎によりオストラヴァで息を引き取った。彼自身の指示で、妻ズデンカへの連絡は亡くなるまで行われなかった。棺はブルノの聖アウグスティヌ修道院の聖堂に安置され、葬儀は8月15日にブルノ劇場で行われた。
葬儀では作曲家の生前の希望通りオペラ「利口な女狐の物語」から森番のエピローグが演奏された。オペラの中でヤナーチェク自身が台本を書き起こした部分で演奏される曲は、流れてゆく時間の中で循環し繰り返される生命・大いなる自然の営みへの感動と敬意を歌う楽曲である。
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