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レオシュ・ヤナーチェク 壮年期





ブルノに帰った翌1881年にヤナーチェクは、ズデンカ・シュルゾヴァーと結婚し、岳父エミリアン・シュルツの助けで1882年にオルガン学校を開校した。この学校は、1919年に国立音楽院となった、現在のヤナーチェク音楽院である。また、同じ年にブルノ・ベセダに歌とヴァイオリンの学校も開設している。さらにヤナーチェクはブルノに設立されたチェコ人劇場のための音楽雑誌「フデブニー・リスティ」の創刊者となり、1884年11月にその第1号を発刊した。この頃のヤナーチェクは2つの音楽学校の教師、2つの合唱団の指揮者、音楽雑誌の編集者と多忙を極め、作曲をほとんど行っていない。
1886年、ヤナーチェクは民俗音楽を研究していた民俗学者フランティシェク・バルトシュと親交を深め、協力して民俗音楽と民俗舞踊の収集・分析作業を行うことにした。ヤナーチェクはこの作業に没頭したが、これがモラヴィアの音楽をその血肉とする最後の仕上げとなった。ヤナーチェクは1889年の「ラシュスコ舞曲」において、初めて民俗音楽をはっきりと意識した作品を発表した。民俗音楽の直截な引用は1891年のオペラ「物語の始まり」で頂点に達し、その後はほとんど見られなくなる。こうして独自の音楽語法を手にしたヤナーチェクが1894年から1903年の9年間をかけて完成させたのが、彼の代表作の一つであるオペラ「イェヌーファ」であった。
一方で、彼の民族主義運動への共感は深まっていた。1905年10月1日、ブルノでチェコ人のための大学創立を要求するデモと軍隊が衝突し一人の労働者が死亡する事件が起こるが、この事件に怒ったヤナーチェクはピアノソナタ「1905年10月1日 街頭にて」を作曲した。また1915-1918年には、コサック首領の物語に祖国独立の想いを仮託した管弦楽曲の代表作、交響的狂詩曲「タラス・ブーリバ」を作曲し、チェコスロヴァキア共和国軍に捧げている。
私生活では、ズデンカ・シュルゾヴァーとの結婚生活は当初から不安定な状態が続き、妻の実家であるシュルツ家との関係も悪化した。ヤナーチェクは結婚の前後から、民族主義的な傾向を強めドイツ語の使用を避けるようになっており、それが当時の上流階級の常としてドイツ語でドイツの習慣に従って生活していたシュルツ家の人々との距離を離れさせる一因であった。1890年に長男が亡くなった後は、ヤナーチェクの死まで結婚関係こそ解消されなかったものの、結婚生活は事実上崩壊していた。なお、ズデンカ夫人はヤナーチェクの死後「ヤナーチェクとの生活」と言う回想録を遺し、2人の関係について率直に語っている。
1903年にはヤナーチェクは娘オルガも亡くし、翌年には先達であるドヴォルザークも亡くなった。この頃には後述するように「イェヌーファ」のプラハ初演は断られ、逆にロシアからワルシャワ音楽院院長職の打診を受けるなどして移住も考えていた。作品もピアノ曲集「草陰の小径」や「霧の中で」といった内省的なものが書かれている。



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