「レオシュ・ヤナーチェク」 少年期
1854年7月3日、モラヴィア北部の寒村フクヴァルディ
Hukvaldy / ドイツ語
; ホーホヴァルト : 現在のチェコ共和国北東部にあたり、当時はオーストリア帝国領であった。フクヴァルディの村がある丘の麓に位置する隣村プシーボルは、心理学者ジークムント・フロイトの出身地である。ヤナーチェクが生まれた2年後の1856年にフロイトも誕生した。
において、学校教師の父イルジーと母アマリアの10番目の子供として誕生した。11歳のときモラヴィアの首都ブルノに連れて行かれ、アウグスティノ会修道院[ブルノのアウグスティノ修道院でヤナーチェクが生活していたころ、同じ修道院の修道士にモラヴィア出身のグレゴール・ヨハン・メンデルがいた。彼が後世メンデルの法則として知られることになる論文を発表したのはヤナーチェクが修道院へやってきた翌年の1866年である。現在ではこの修道院は遺伝の法則を発見したメンデルの修道院として有名であり、一部は現在メンデル博物館となっている。]の少年聖歌隊員となった。聖歌隊で彼に音楽教育を施した指揮者、パヴェル・クルジージュコフスキー[パヴェル・クルジージュコフスキーは貧しい女性を母とする私生児という境遇ながら大学まで進学して司祭となった経歴をもつが、そのきっかけは教師をしていたレオシュの父イルジーによって音楽の才能を期待されて教育を受け、聖歌隊養成学校に奨学金付きで入学できるよう援助を与えられたことにあった。パヴェルはイルジーの恩に報いるためレオシュを我が子のように慈しみ、厳しい音楽教育を行ったという。]はチェコ国民楽派の始祖とされるスメタナと同世代にあたり、ブルノ・ベセダというアマチュア音楽家グループの中心人物としてモラヴィアの民俗音楽の豊かさを認識させる運動を行っていた音楽家で、その後のヤナーチェクの音楽に対して影響を及ぼした。
ヤナーチェクは1872年、アウグスティノ会修道院の聖歌隊副指揮者に、1873年にはスヴァトプルク合唱協会の指揮者に就任した。無伴奏男声合唱のための作品がヤナーチェクの初期作品にいくつか見られるが、それらはこのスヴァトプルク合唱協会のために書かれたものと考えられる。
あっぱれ!!さんま新教授(広田レオナ:お墓の疑問)
09:45
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