オケゲムの出生地は最近の研究によって現在のベルギーのサン=ギラン(Saint-Ghislain)であることが明らかにされた。以前の伝記においては、オケゲムはブルゴーニュ公国の出身で、フランドル東部(現ベルギー領)のオケゲムかその隣町テルモンドの出身と言われてきた。幼年期については伝わっておらず、生没の日付は不明なので、ふつうは詩人クレタンCr?tin が作曲家の最期に寄せたコメント(「けしからぬことだ、彼ほどの才能の作曲家が100歳にならずして世を去らねばならぬとは」)から割り出されてきた。当時の多くの作曲家のようにオケゲムも聖歌隊長を振り出しに音楽活動に入っており、彼の名前の最初の記録は、アントウェルペンのノートルダム寺院に残されている(1443年〜1444年採用)。1446年から1448年には、フランスのブルボン公シャルル1世にムーランで仕えた。1452年ごろにパリに移り、フランス宮廷楽長ならびにトゥールの聖マルタン寺院の出納方に就任した。フランス宮廷での――シャルル7世とルイ11世への――仕官に加えて、ノートルダム寺院や聖ブノワ寺院St. Beno?t にも職務を得た。1470年には、ギュイエンヌ公シャルル(ルイ11世の弟)からカスティーリャ王女イサベルへの求婚の意を託されて、イベリア半島を訪れた。ルイ11世が1483年に没してからは、オケゲムの所在は不明になるが、それでもブルッヘやトゥールを訪ねており、後者で遺言を残していることからすると、おそらくその地で没したのだろう。生前から「我等の良き父」と人々の尊敬と信頼を勝ち得ていたオケゲムの死は多くの人々を悲観させた。その証拠に当時の多くの著名な作曲家たちが、哀悼歌をオケゲムにささげている。
オケゲムはおそらくバンショワに師事したようだが、ブルゴーニュでの両者のつながりは、まさに取るに足りないものだった。アントワーヌ・ビュノワが1467年より前に、オケゲムを称えるモテットを作曲しているので、もしかするとこの両者に面識があったのかもしれない。オケゲムの作曲様式は、旧世代のそれとはかなりかけ離れているものの、作曲技法の根本を旧世代に負っているかもしれず、そうだとすればオケゲムは、ブルゴーニュ楽派と、次世代のネーデルランド楽派、例えばヤーコプ・オブレヒトやジョスカンとを直接に橋渡しした存在であると見なせよう。
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