1976年に連邦経済省に入省し、政策局に勤務。1981年にドイツキリスト教民主同盟(CDU)に入党し、同年シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州政府の州首相府に移る。ゲルハルト・シュトルテンベルク州首相の勧めで1982年に連邦財務省に転じ、大臣官房長。1987年、同省財政局長。1989年に同省金融局長となる。1990年に連邦財務省事務次官に就任。マーストリヒト条約の締結交渉やドイツ再統一に伴う金融・財政の責任者となった。旧東ドイツからのソ連軍撤収費用としてソ連との間で財政支援協定を締結。また1991年の湾岸戦争の際に、多国籍軍支援としてドイツがアメリカ合衆国に120億ドイツマルクを支払った協定もケーラーが担当した。当時のヘルムート・コール首相(CDU)の信頼が厚く、G7の経済会議にも代表として四回出席した。ドイツ再統一の際東西両ドイツは通貨同盟を締結したが、その際財界の要請に応じて東ドイツの経済価値を過大評価し、のちにドイツ政府に2000億マルクもの追加負債を与えたのはケーラーの責任であるという声もある。
のボノと対話する、IMF専務理事時代のケーラー
1993年から98年まで、ドイツ貯蓄銀行協会会長。次いで2000年までヨーロッパ再建開発銀行総裁を務める。2000年、ゲアハルト・シュレーダー首相の推薦で第8代国際通貨基金(IMF)専務理事に就任した。その際「トライラテラル・コミッション」(日米欧三極委員会)の委員となる。この経歴が現在にいたるまで、アメリカ的という彼の政治的・経済的性向に関する評判の起源となっているが、実際のところは明言していない。2003年には20年におよぶ金融・財政分野での活動が顕彰され、母校チュービンゲン大学の名誉教授となった。2004年3月、野党CDUと自由民主党(FDP)は候補者選びに難航した末、共同のドイツ連邦大統領候補としてケーラーを指名した。母国での出馬のためケーラーはIMF専務理事の任期を1年残して辞任。
ケーラーの対立候補は与党ドイツ社会民主党の推す女性大学教授ゲジーネ・シュヴァンだったが、当時連邦参議院では与野党が逆転しており、連邦議会でもほとんど均衡していたので、選挙前からケーラーの選出は確実と見られた。IMF専務理事というケーラーの前歴は経済界には歓迎されたが、ドイツ労働組合連合(DGB)や反グローバリゼーション団体ATTACはその経済的な性向を警戒した。出馬決定後の会見でケーラーは、連邦政府が進める多分野の改革がまだ不十分であるが、ドイツには改革をやり通す力があり、研究開発と教育が最重要課題であると主張した。
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