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アントニン・ドヴォルザーク 帰国後





帰国後もドヴォルザークはしばらく何も手につかない状態にあった。しかし1895年11月1日、プラハ音楽院で再び教鞭を執り始めた。作曲も再開され、アメリカを発つとき未完成のまま鞄に詰め込まれた弦楽四重奏曲第14番も1895年の年末には完成した。1896年3月彼は、最後となる9回目のイギリス訪問を果たす。この直後、ブラームスからウィーン音楽院教授就任の要請を受けるが、これを断った。アメリカ滞在や最後のイギリス訪問を通じて彼は、ボヘミアこそ自分のいる地だと思い定めたのだった。この後、ドヴォルザークは、標題音楽に心を注ぐようになる。カレル・ヤロミール・エルベンの詩に基づく交響詩の連作(『水の精』、『真昼の魔女』、『金の紡ぎ車』、『野ばと』)を作曲したのも1896年のことである。
帰国後のドヴォルザークには多くの名誉が与えられた。1895年、ウィーン楽友協会はドヴォルザークを名誉会員に推挙すると伝えた。同年ウィーン音楽省はプラハ音楽院への援助を増額する際に、ドヴォルザークの俸給を増額するようにと明記している。1897年7月にオーストリア国家委員会の委員となった。この委員会は、かつてドヴォルザークが得ていた奨学金の審査を行う委員会であり、才能ある貧しい若者を援助できることは彼にとってこの上ない喜びであった。さらに1898年には、それまでブラームスしか得ていなかった芸術科学名誉勲章をフランツ・ヨーゼフ1世の在位50周年式典の席で授けられている。
こうして、さまざまな栄誉を身につけたドヴォルザークであったが、彼にはオペラをヒットさせたことがないという焦燥感があった。そしてチェコの民話に想を得た台本『悪魔とカーチャ』に出会い、オペラ創作に邁進してゆく。1898年から1899年にかけて作曲されたこのオペラは、1899年11月23日に初演されると大成功を収め、ドヴォルザークは、ジムロックからの要請にもかかわらず、他のジャンルには目もくれずに、次の台本を探し求めた。そして出会ったのが、『ルサルカ』であった。1900年4月に着手され、11月27日に完成したこの妖精オペラは1901年3月31日にプラハで初演されて再び大成功を収める。しかし、様々な事情でウィーンで上演される機会を逃し国際的な名声を生前に受けることができなかったことで、ドヴォルザーク自身は決して満足できず、これ以後もオペラの作曲を続けるが、最後の作品であるオペラ『アルミダ』(1902年 - 1903年作曲、1904年3月25日初演)は、初日から不評に終わってしまった。
1901年オーストリア貴族院はドヴォルザークを終身議員に任命し、同年7月にはプラハ音楽院の院長に就任した。しかし多忙のドヴォルザークの院長就任は多分に名目上のものであり、実務や組織はカレル・クニトゥルが執務した。
ドヴォルザークには、尿毒症と進行性動脈硬化症の既往があったのだが、1904年4月にこれが再発。5月1日、昼食の際気分が悪いと訴え、ベッドに横になるとすぐに意識を失い、そのまま息を引き取った。死因は脳出血だった。葬儀はその4日後の5月5日に国葬として行われた。棺はまずプラハの聖サルヴァトール教会に安置された後、ヴィシェフラド墓地に埋葬された。



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クーベリック/ドヴォルザーク:交響曲 第9番 ホ短調 「新世界」より
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